CV – Takeo Hatai (jp)

畠井武雄の履歴書

3Dコンピュータグラフィックス、アニメーション、ウェブなどのデジタルコンテンツのデザイナー
[email protected] もしくは、@takeolepivot

1968年 大阪生まれ

1990年 (株)アニメーションスタッフルーム入社
1990年 同社 SFX スタジオ アルファスペース モーションコントロール撮影部 – 特殊撮影技術部
1991年 同社 コンピュータグラフィックス部開設に参画
1996年 アニメーションディレクター就任 2D/3Dのテクニックを織り交ぜたアニメーション作品を数多く制作
1999年 新しい技術や表現方法を目指しフランスへ移住
2003年 デザインスタジオ Le Pivot (ル・ピヴォ) 設立
2018年 環境保全アソシエーション 1% FOR THE PLANET へ参加

DESIGN LOVEをテーマに、人々に喜びと勇気を与えるユーモアに溢れたクリエーションを続けています

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学生時代

高校は大阪市立工芸高校、金属工芸科(現プロダクトデザイン科)に入学。
中学3年生の進路相談で、担任教師から「つぶしが利かなくなるから止めなさい」と言われたのに腹を立て、必死に受験勉強に励む。

金属工芸とCAD

高校の授業では、伝統的な手工芸の板金、彫金、鋳金や造形を学ぶ傍ら、コンピュータを使用して造形する CAD (Computer-Aided Design)の技術を並行して学ぶ。

CADシステムは、大阪の地元企業のSHARP社に導入されたものと同じものが導入された。
地元産業と密接に結びついた工芸(工業)教育だった事が伺える。
プロダクトデザインの教鞭をとられていた先生と担任の先生は、SHARP社から派遣され、SHARP兄弟と呼ばれていた。
これが畠井の初めてのコンピュータ – NEC 98体験となる。

僕を作ったデザイン

伝統的なクラフトマンシップ(手工芸)と大量生産される工業製品のデザインの両方に魅了される。
イタリアのルイジ・コラーニ氏がエルゴノミックデザイン(人間工学デザイン)の観点から、Canon EOSシリーズのコンセプトデザインをしている時代だった。
その流線型のプロダクトに感動したのを憶えている。

イタリアのアレッシイ社のデザインに見られるような「ユーモア」が人々の生活を豊かにすることに興味を抱き始める。

音楽

中学、高校と吹奏楽でトランペットを担当することから、Jazz、Fusion、Popsを傾聴する。
YMO (Yellow Magic Orcherstra) が散開することで初めてYMOを知り、これまでのアルバムを逆走して聴くことになる、そうしてテクノミュージックの渦に飲み込まれていく。
YMOの開発した機材やレコーディング技術、作曲方法は、後の映像制作に大きな影響を与える事となる。

予備校時代

その後、大阪芸術大学を受験するが、一般科目の成績が足りず失敗。

同年、代々木ゼミナールが大阪校を開校し、美術大学受験科が併設された。関西、関東から優秀な講師陣、風変わりな美大浪人生が集まる。
簡単に言うとヒッピー的な場所が大阪にできる事になる。

芸術的な基礎を築くには、とても有意義な2年を過ごしたが、2度の東京芸術大学デザイン科の受験に失敗。。。
すぐにでも社会で華やかなデザインの仕事がしてみたかった畠井には、4年の大学生活は長すぎると感じていた。

この2年間は、ギリシア美術をはじめとする西欧芸術と真摯に向き合い、芸術の基礎を固められた貴重な時間となった。

Computer Graphicsとの出会い

そんな頃、尊敬する坂本龍一氏と村上龍氏の対談「EV.Café 超進化論 (1989 講談社)」の中で、坂本龍一氏がコンピュータグラフィックスへの興味について書かれているのを読み、そのままその道に進むことを決定。

兵庫県神戸市にあった神戸コンピュータスクール メロンに入学。
言わなくても判るだろうがカーネギーのメロンとは何の関係もありません。

ここで、本当に初めてコンピュータの基礎を学ぶ、NEC 98にMS-DOS、Basic、C言語、そして日本製のPersonal Linksで3Dコンピュータグラフィックスの制作を学ぶ。

卒業制作の課題に1年間かけて3分間のアニメーション作品を創る。
割合凝った造形をモデリングしたが、どうやって創ったか全く記憶にない。
一番長かったレンダリングは1枚48時間くらいで、メディアは全て5インチのフロッピーディスクに保存されていた。
今考えると不思議だけれど、ハードディスクがなかった。。。

ストップモーションアニメーション

ヤン・シュヴァンクマイエル氏に代表される東欧のアートアニメやズビグ・リプチンスキー氏などが創り出したビデオアートやメディアアートを観た。

またMTVがアメリカから輸入され、イギリスやアメリカのミュージックビデオに多く触れる機会を得た。
中でも、ストップモーション撮影を駆使した、ピーターガブリエル氏のスレッジハンマーやビッグ・タイムなどのクリップに大きな衝撃を受けた。

就職活動

コンピュータグラフィックスの可能性に魅了される傍ら、スレッジハンマーのような立体造形がアニメーションされるストップモーション撮影や特殊映像にも興味が沸いてきたが、あまり文献もなく途方にくれていた。

ちょうどその年フジテレビの新番組「とんねるずのみなさんのおかげです」が始まった。そのオープニングタイトルに驚いた!
まさしく粘土を使ったストップモーションアニメーションだった。
同時にエンディングクレジットされていた「アニメーションスタッフルーム」を知ることになる。

シロクロ

合成について。当時は合成という言葉を知らなかった。
ある写真の人物を切り取って、別の風景に合体させたかったが、方法論がなかった。

NEC98上で動くImage Makerというペイントソフト + ハードで、人物を真っ白に塗り、背景を真っ黒に塗り、その絵の前で1~2週間考え、(人物x白黒)+(背景x(白黒反転))というとてもシンプルなプログラムをC言語で書いてみた。
そして合成というものができた。しかもデジタル合成だ!

もちろん当時は「マスク」という言葉は知らず、そのプログラムは「シロクロ」と呼ばれていた。
凄い発明をしたと思いこみ、東京のアニメーションスタッフルームの面接を受けることになる。

就職

試験は、面接と作品提出。
作品は専門学校の卒業制作の3分のアニメーション。
この1年にいろいろなタイプのアニメーションを観たお陰で、多くのオマージュが散りばめられ、最後の最後にピンクフロイドのザ・ウォールを見てしまったお陰で、少し社会性(?) のスパイスも含まれている。

後日、この作品は、日本CGグランプリで動画部門、最優秀賞をいただく大作である!

面接で一番評価をいただいたのは、電気ガス溶接の資格を持っている事。。。
評価していただいたのは、後の上司になる藤井昇氏。
制作中だったモーションコントロールカメラなどの特殊機材の制作に使えると考えたようだ。

そして、縁あって、アニメーションスタッフルームの面接に合格。

東京時代

1990年春、東京のアニメーションスタッフルームでの仕事が始まる。

会社には、まだコンピュータグラフィックスの部署は存在しなかった。

テレビコマーシャルの特殊なアニメーションやVFXのシーンは35mmのフィルムで撮影されていた。
撮影されたフィルムは、、、
畠井が入社した頃には、すでにD1(デジタルビデオ)にテレシネ(Film to Video) し、Quantel社のHarryでノンリニアデジタル合成が始まりつつあった。

そして会社のデザイン室では、白と黒で塗られた画が描かれて、ビデオ合成では、それを使って複数の画が合成された。
マスクという言葉は日常茶飯事のように聞くことになる。

マスク合成はデジタル合成に始まった訳ではなく、「黒はフィルムに露光しない」という特質から、オプチカルプリンターなどを使用したフィルム合成のプロセスで既に存在していた事は付け加えておきます。

アルファスペース

最初に配属された部署は、川崎市にある自社スタジオ、アルファスペーススタジオ。
ここで、コンピュータ制御で撮影をするモーションコントロールカメラのオペレーションを担当する。
実際にはガス溶接を使うことはなかったが、毎回の特殊な撮影条件にあわせて、カメラのセッティングを機械工作する毎日を送る。
知的労働とは言いがたい。。。

同時に、日本CGグランプリの賞金でNikon FE2という一眼レフカメラを購入。
公私ともに撮影技術の基礎を学ばせていただく。

本社移動 – コンピュータグラフィックスを始める

約2年後、上司の「そろそろやろうと思うんだけれど」という一言で、本社青山へ移動。
藤井昇氏、佐々木康之氏の元、コンピュータグラフィックス部門がスタートした。
青山本社の地下室の脇に、PC数台、そしてPIXAR社が開発したレンダラーRendermanが購入された。

Windows前夜、Adobe前夜。丸いボールがスクリーンにレンダリングされるまでに2週間以上はかかったかもしれない?

バブル期であった故、仕事だけはたくさんあった。
どうやってモデリングし、どんなアニメーションをしていたのか、全く記憶がない、というくらい仕事をしていた。
キツかったが、感じる暇がなかった。

2年後、Silicon Graphics社のIndyというマシンにWavefrontというソフトを購入してもらう。
オールインワンパッケージの本格的なCGソフトだった。1台で1,000万以上の投資だったはず。
仕事の効率は格段に上がったが、仕事は忙しく、多いに自分を見失う毎日を過ごす。
そして、Rendermanは誰も使わなくなった。。。

東京ひきこもり時代

1995年、そんな毎日の中、撮影部の相原君の誘いで、MTVのStation IDのコンテストに応募することになる。
デザイン部のソネタ君、CG部の佐野さん、友人の山尾君に出演していただき、20秒のフォーマットに収まった。
ストーリーボードを描いたことがなかったので、何度もつなぎ直したり、張り合わせたりしていたので、何となく妙なフィルムに成った。

ハードな生活が続き閉塞感を感じ、無断欠勤をしていた。
その自宅のアパートにMTVの寺井氏から、受賞の電話をいただく。
本当に嬉しかった。

ほぼ同時期に、MTVの番組オープニングタイトルの仕事を受注させていただき、初めての監督作品を制作するチャンスをいただく。

コンピュータグラフィックの背景に手描きのセルアニメーションのキャラクターを描くスタイルで、ストーリーボードを描いた。
アニメーターは小原秀一氏。
アートディレクションから、詳細なカットや、映像のディティールまでこだわって作らせていただいた初めての作品と成った。

予算組みに尽力くださったプロデューサーの山本氏、多くのアイデアを教授いただいた小原氏、複雑な画作りを協力いただたスタッフルームのデザイン室、撮影部の皆さんにこの場(履歴書)を借りて御礼申し上げます。

この2作品、MTV – New DNA PatternMTV – Top of Japanは幸運にもSiggraphを始めとする内外のフェスティバルで好評価をいただいた。

初めてのフランス

1997年、広島アニメーションフェスティバルで畠井の作品を審査員特別賞として推薦してくれた審査員、フランスのファントム社、ジョルジュ・ラクロア社長から、フランスのテレビコマーシャルの制作監督の依頼をいただく。
MTV – Top of Japanと全く同じスタイルで3本を制作。
内1本はファントム社と共同制作をする契約となった。
そして、1泊2日(?)という旅程で、初めてのフランスへ!

作品のスタイルは何も決まっていなかったが、音楽だけは決めていた。
日本のHMVで購入したフランスのデジタルロック、ダフトパンクをサンプルとして聴いてもらった。
フランス人なのに誰も知らなかった。。。

初めてのインターネット

フランスのCMフォーマットは20秒だった。日本の15秒、30秒のちょうど真ん中でちょっと笑った。
共同制作する3本目には、技術的に高めのハードルが設定された。
背景のコンピュータグラフィックスはフランスで制作され、キャラクターのみ日本でアニメーションされる。
初めての海外の仕事なのに妙にマゾヒスティックな仕事。
背景と人物の位置関係を、作画段階で正確に決める必要がある。
しかも、カメラも背景も固定ではない。。。

1997年 インターネットって何? という時代。
時代的には、1994年にNetscape Navigatorがリリースされ、1998年にInternet Explorer がWinodws 98にプリインストールされる。
でも名前も聞いたことなかった。

NTTが会社の一角に大きなネット回線用のボックスを設置した。
Windowsの一つの窓がフランスへつながった瞬間だった。
フランスの窓は黒く小さかった。
GUIはなく、コマンドラインから、単純なファイルコピーと、メッセンジャーがあるだけ。
でも、それで充分だった。

自分の描いた絵が画像劣化なく、フランスへ届く。
そして翌朝、コンピュータグラフィックスでワイヤーフレーム出力された画像が、連番でアップロードされていた。
そして気の利いたメッセージがチャットされていた。

この感覚は、言葉にできなかったが、物理的な距離や時差など、これまでの制約がふっとんだ技術体験だった。

初めてのチュー

1本、2本と、スタッフの方々のご尽力のお陰で納品が完了し、3本目は、全てのアニメーション素材を日本からフランスへ持ち行き、現地で作られていたコンピュータグラフィックスの素材と合成作業をする旅程となった。
これまで黒い窓で短いチャットを続けた彼との対面で、オフラインでは言葉は交わさないにも、ジーンと心が熱くなった。

3本目のクライアント試写には、クライアントの男性は奥さんを連れてやってきた。
彼の完成のお祝いの言葉が終わると彼女はそっと立ち上がり、僕にチュー(ビス)をした。
これまたジーンとなった、イイ体験だった(笑)
Kobby 1, Kobby 2, Kobby 3

退職

それから2年、相変わらずコンピュータグラフィックスでテレビCMやゲームのオープニングタイトルなどを作っていた。
が、何気に気分はうわのそらだった。

長年続けてきた「広告」と自分の「目的感」にズレがあったことや、印刷やウェブ、はたまた商品のデザインなど、より価値的なモノ作りを目指したいと思っていた。

1999年春、10年間お世話になった 株式会社アニメーションスタッフルームを退社させていただく。
チームとの協調性もなく、無断欠勤も多かったそんな奴にも名残惜しんでお酒を交わしていただいた先輩諸氏には心から感謝いたします。

1999年 世紀末

次に何をするかは決めてませんでしたが、今年中にワンステップ進めることだけは決意した。

アメリカ大使館に、一体アメリカに住むにはどうしたらいいんでしょうか?と問い合わせると、5分後に、「Well Come to U.S.A」 と表題された、ファックスが送られてきた。
フランス大使館には何度電話してもつながらなかった。居留守か? それでも問い合わせのファックスを何度か送ると、数週間後に、労働ビザ申請書類のリストだけがファックスされてきた。フランスが一機に嫌いになった。。。

そんなことをしながらも、お陰様で、いろいろなお仕事をに声をかけていただき、退社前と相変わらずな忙しい毎日でした。
短いフリーランス時代にお仕事をいただいた 山本さん 高橋さん、マシン環境を快く提供していただいた町田さん、本当にありがとうございました。

Dreamweaver

そんな暑い夏の日、フランス人の知人から、「僕の作っているショッピングサイトの日本語ページを作れないか?」という問い合わせメールがやってきた。
フランスへ移住する計画は何のリアリティもなかったけれど、このメールには、充分なリアリティを感じた。

実際のところHTMLなんて書いたこともないし、Webの知識ゼロでしたが、まずはフランスに行って仕事をしてみることにした。

仮住まいの鍵だけゲットし、飛行機の中でDreamweaverというHTML編集ソフトの解説本の1ページ目を開いた。
フランス到着までに全部読んだが、かなり「?」だった。

フランス労働ビザを申請してから審査結果まで2~3ヶ月かかるというので、出発前に、全ての書類をフランス大使館に納めた。

労働ビザ申請なのに、フランスでの現住所の証明書(電気代の支払い証明とか)が必要だった。。。
銀行口座の開設には住所証明が必要で、家を借りるには銀行口座が必要だった。。。

目が回りそうだった。

フランスでの職探し

90年代後半と言えば、ジュネ&キャロ監督のロスト・チルドレン(La Cité des Enfants Perdus)が公開され、ヤン・クーネン監督もドーベルマン(Dobermann)をMac Guff と一緒に仕事をして成功を収めていた。
BUFやDUBOI などが自社ソフトを駆使した素晴らしいSFXを創りだしていた。

とても華やかな時代だった。
そこにはハリウッドのSFXとは一味違う、美しさがあった。

僕は、そういう華やかなリストを片手に職探しをするのだけれど、話はそんなに簡単には進まない。
そりゃそうだ。フランス語なんて一言もしゃべれやしない。

でも、HTMLの方は、毎日進歩した。
毎日Webのページを作り、バーのカウンターでビールのコースターをノート代わりにフランス語の単語も憶えた。
Web仕事の合間に仕事を探し、家も探したけれど、何のリアリティもなかった。

人生でこの上なく足が地に着いてなかった。

1500フラン

2ヶ月が経ち、フランスも秋を迎えた。
そして、「月1500フラン(15万円弱)でどうかな?」と誘ってくれる会社をようやく訪問した。

僕が描いていたフランスの華やかな会社とはかなり違うけれど、社長は今まで見た中で一番の笑顔だった。
正社員契約でもないし、誓約書も何もなかったけれど、笑顔を信じた。

在日フランス大使館からは、ラッキーな事に、労働ビザが無事に発行された。
ビザ有効期間は3ヶ月。
このビザを3ヶ月以内にパリの警察で滞在許可書に変更しなければ無効。。。 

東京の荷物を船に積み、大阪の両親に挨拶し、できる限りの現金を用意し、1999年12月、奥さんと一緒にフランスに移住する。

Maya

全く新しい環境、新しい言語、新しい友達、といろいろあるが、何より苦しかったのが、新しい3Dのソフト Maya だった。

Mayaは、前身のAlias | Wavefront が完全に新しいバージョンとしてリニューアルしたソフトだが、日本でコレを使ったことがなかった。
フランス語で一通り教えてもらったけれど、これもかなり「?」だった。
でも仕事ができないと1500フランはもらえないので、必死のパッチでがんばった。
10日後に1本納品できたのは、10年選手のキャリアです(笑)

給料のお礼に、会社のロゴデザインとCIをやり直し、新しいショーリールを編集した。

口約束だったけれど、毎月1500フランの小切手を手渡してくれた。
そしてロゴのお礼に、午前中にフランス語の学校に行く費用を工面してくれた。

DTP & WEB

会社を辞める時、何気に決めていたのは、「もうCGはやらない」という事だけれど、そんなに急には辞めれるものではない。
そして、もちろん今でも続けています。

数ヶ月後、東京から船便で送った Power Mac 8100 が届いた。
それを使って仕事の合間にDTP – Desk Top Publishing の仕事を始める。
撮影、取材、イラスト、執筆 全てやった。
フルカラー36ページは、Power Mac 8100 には厳しかったが、印刷の方法、DTPのプロセス、機材が毎号毎号グレードアップした。

フランスでもADSLが主流になり、同誌のWeb版を作るようになる。

これらは完全な独学になったが、現在の仕事の基礎体力になっている。

自作PC

2003年 初めて自作PCを作る。 予算は1500フラン。
というか、2002年に、フランはユーロに統一されてしまった。
物価が上がってしまって辛い買い物となった。

前の会社には、凄腕のシステムエンジニアの佐野さんがいたので、自分のPCのマウスとキーボードをつないだ事もなかった。
PCを組み立てる知識はゼロだった。

当時最速のIntel Pentium 3 をCPU にマザーボード、メモリー、ハードディスク、電源の組み合わせを探りに何度もパリの中華電子街に足を運んだ。

目指したのは、自分たちで購入できる安価な機材で、放送レベルの高品質の映像やデザインを作り出せる事。
ハイビジョンへと放送媒体の画質レベルは上がる一方だったが、コンピュータのハードやソフトの価格は全くその逆だった。
僕らにも勝目がありそうだった。

Rue Oberkampf

オーベルカンフ(Oberkampf) はドイツ語でOver Fight の意味。ちょっとカッコいいですね。

ここに設立当初、アトリエとして使っていた、古い工場の物件を見つける。
物件の状態は最悪だったけれど、天井の高さ、スペースなどに魅力を感じ一目ぼれする。

2003年6月~11月まで、アトリエのリフォームをするが、仕事も同時進行していたので、リフォームする物件の中にテントを張るようにしての作業だった。

電話回線を引き、ネットワークの配線をし、サーバーに接続しLe Pivot のウェブサイトをスタートさせた。

Le Pivot 設立

2004年2月 Le Pivot としてMotion Design、Web Design、Graphic Designの会社として法人登記が完了。

「パリのお洒落なCG屋」として、テレビコマーシャル、ミュージックビデオ、展示会映像などを中心に制作。
ファッションやアクセサリーブランドのカタログやグラフィック、そしてウェブデザインへと発展する。

https://lepivot.com

10周年を記念にして制作したカタログ。
https://issuu.com/lepivot/docs/le_pivot_catalog_2014

2020年版のロゴ。
ロゴデザインは、毎年のようにリデザインをしてきました。
デジタル・デザイン、グリッド・デザインというデザイン思考に加えて、星空の瞬きや宇宙観の意味が込められています。

まとめ

この長い履歴書はル・ピヴォ10周年を迎えた2013年に書き記しました。

これまでとこれからのことを、このブログ https://takeolepivot.comで書き続けています。

これらの多くの履歴や経験は、「当たって砕けろ」的なチャレンジの連続でした。
この精神を忘れず、常にプッシュプッシュしながら、新しい価値を創造していきたいです。

長い履歴書を最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございます!

2013年11月24日 初版
2018年11月24日 加筆修正
2020年11月24日 加筆修正

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